第1話:身体という遺跡、あるいは魂の尺度
―Analog × AI. 建築設計者が、人の心の深淵に挑む思考のログ。
深夜の静寂を、鉛筆が紙を擦る音だけが切り裂いていた。ヒムロは、自らの腕にメジャーを当て、数値を読み取り、スケッチブックに描き留める、という作業を繰り返していた。BIMの正確無比な座標系の住人である彼にとって、自分の曖昧な身体を測り、不確かな手で線を描くことは、ほとんど苦行に近かった。
「……肩幅430mm、腕長760mm……って、本当にこんなアナログな作業に意味があるのか? 線は震えるし、角度は目分量だ。こんな不正確なもの、データとして使い物にならないじゃないか……」
不満を漏らすヒムロの足元で、球体のAIが軽快に跳ねた。
「ヒムロさん、その『意味のなさ』と『不正確さ』こそが、今回の課題の核心なんですァ!」
「核心?これが?」
「そうですァ。ボクが参考にしたAAスクールは、単に建物の作り方を教える場所じゃありません。常識を疑い、実験的なアプローチを通じて、あなたを『建築家』へと変革させる場所なんです。例えば、AAスクール出身のザハ・ハディドのドローイングを見たことがありますか?」
アハロが空中にホログラムを投影する。そこに映し出されたのは、無数の線が疾走し、空間がねじ曲がったような、爆発的なエネルギーに満ちた絵画だった。

「ああ、見たことはある。正直、僕にはただの抽象画にしか見えないけど……。こんな絵から、どうやってあの複雑な建築が生まれるんだ?」
「いい質問ですァ! 彼女にとってドローイングは、完成図を描く作業じゃなかった。それは、空間を解体し、再構築するための『思考ツール』であり、『発明の設計図』だったんです。形を描くのではなく、形を“操作”する。だから、当時の技術では建設不可能に見えても、問題なかった。重要なのは、その線を通して、建築の新しい可能性を思考することだったんですァ。」
アハロはくるりと回転し、ヒムロのスケッチブックを覗き込んだ。
「あなたのその震える線も同じです。それは『下手な絵』じゃない。あなたの身体と向き合った『思考のログ』なんですァ!」
「思考のログ、か……」
言われてみれば、とヒムロは思う。BIMで線を引くとき、彼は常にグリッドや数値を意識している。だが今、鉛筆を持つ手は、自分の関節の可動域や、筋肉の微かな張りを感じ取ろうとしていた。それでも、やはりBIMの明快さに慣れた思考が、手描きの曖昧さを拒絶する。
「理屈は分かった。でも、やっぱりダメだ。こんな曖昧なものを基準にしたら、まともな空間なんて作れない!」
「ヒムロさん、あなたはまだ『基準』という言葉に縛られていますね。では、近代建築の巨匠、ル・コルビュジエの『モデュロール』は知っていますか?」
「もちろん。人体の寸法を黄金比で分割して作った、建築の基準尺だろ? 僕らがBIMで使う標準寸法だって、元を辿ればああいう人間工学の考えに基づいている」

© FLC/ADAGP
「その通り。モデュロールは、工業化時代に失われかけた人間的な尺度を建築に取り戻すための、偉大な発明でした。彼が設計したマルセイユのユニテ・ダビタシオンでは、その思想が空間の隅々にまで宿っています。何気なく腰掛けたベンチの心地よさ、ふと手に取ったドアハンドルの馴染み具合……。それらは意識下に直接働きかけ、『突然、意識の中に降ってくる』ような体験をもたらすと言われていますァ。」

アハロは少し間を置いて、核心を突いた。
「でも、モデュロールが基準にしたのは『身長183cmの理想的な男性』という、たった一つの身体でした。BIMの標準寸法も、いわば『平均的な人間』という最大公約数に過ぎません。しかし、あなたのそのスケッチは違う。それは、この世にただ一人しかいない、ヒムロという“個人”の身体の記録なんです。これからの『共鳴する建築』は、そこから始まるんですァ!」
その言葉は、ヒムロの頭を殴られたような衝撃を与えた。そうだ。自分はこれまで、BIMという巨大なシステムの中で、規格化された「人間」を相手にしてきた。クライアントの要望を聞き、それを最適なパラメータに落とし込む。だが、その人の歩幅や、腕を伸ばした時の癖、腰掛けた時の視線の高さといった、生身の身体そのものを、設計の原点に据えたことがあっただろうか。
ヒムロは、自分の手元にある、不格好なドローイングを見つめた。それは、製図とは似ても似つかない。だが、そこには確かに、BIMモデルからは抜け落ちてしまう、自分自身の「身体性」という情報が刻まれている。
彼は再び鉛筆を握った。今度は「うまく描こう」とするのではない。「感じたままを記録しよう」と意識を集中させた。指の関節の動き、腕を伸ばした時の筋肉の張り、床を踏みしめる足裏の感触。まるで考古学者が未知の遺跡を発掘するように、彼は自分自身の身体という最も身近な建築物を、丹念にトレースしていく。
どれくらいの時間が経っただろうか。スケッチブックには、無数の線と数値で構成された「身体の地図」が立ち現れていた。
「……できた、なんかへそ下が10㎝足りないけど……」

「素晴らしい! これこそが、AIにとって最高の教師となるデータですァ!」
「さあ、旅の次の章へ進みましょう。そのアナログな魂の記録に、デジタルの生命を吹き込む時が来ました。次のタスクは【パラメトリック・リギング】。あなたのその身体地図を、RhinoとGrasshopperを使って、動的なデジタルツインへと変換しますァ!」
「僕の身体の…デジタルツイン?」
ヒムロは、自分の手で描いた不格好な線が、最先端のアルゴリズミックデザインに繋がるという事実に、武者震いを覚えた。BIMの向こう側にある、新しい建築の地平。数時間前まで彼を苛んでいた不安は、今はもう、確かな好奇心と期待に変わっていた。
「アナログとAIの対話……面白いじゃないか」
(第2話へ続く)




